緩和 - relaxation -

円政寺 / 山口県萩市

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御朱印

真言宗御室派 月輪山 円政寺

御本尊

地蔵菩薩

御由緒

金毘羅社 圓政寺

当寺(真言宗)の入口に玄武岩の鳥居(文化財)が建っているのは、境内に金比羅社があるからで、神仏混淆の名残りである。
明治初年までは、ここに萩城内にあった満願寺の末寺法光院があったが、明治初年に廃寺となった塩屋町の円政寺の寺号を引いて、円政寺と改称したものである。円政寺は、大内時代山口にあった寺を移し建てたもので、その庫裡は明治八年頃、北古萩一区の海潮寺に移され、山口には地名だけが残っている。
境内にある金比羅社(文化財)は特異な建物で、軒下欄間に十二支の彫刻がめぐらしてあるが、同社にまつわる話題としては次の二つが有名である。(この社殿は一七二一年に再建されたものである)
(1)文化十二年(一八一五)十二月十一日、城下東郊香川津に住んでいた坪井甚右衛門組下の御六尺(藩公の駕籠舁き)長七の長男権蔵と三男利吉の二人が、母の産後の病気平癒を祈願し、七日七夜断食し金比羅社に詣り、満願の夜丸裸で雪の中を家に帰る途中、松本川東岸の雁島付近で凍死した事件である。これは当時から「香川津の二孝子の美談」として語り伝えられた話で、藩公の命により山門内側に頌徳碑が建てられている。
(2)金比羅社の拝殿の前に大きな赤い天狗の面がかけてあるが、天保の末年、近所に生まれた高杉晋作がまだ幼かった頃、家人にいつもここに連れて来られて、この面を見せられて、ものおそれをしないようにしつけられたという。
喜永の頃、法光院住職恵運は、いとこの琴子の一子利助という十一歳になる子をあずかって、約一年半雑用させるかたわら読書や習字を教えた。後の伊藤博文である。
ここで見るべきものとしては、元禄十二年(一六九九)八月、萩藩の鋳物師郡司権助正信鋳造の半鐘が本堂拝殿にある。拝殿の前に山口県で一番大きくて見事な石燈籠(文化財)が一基ある。安政五年(一八五八)三月に寄進されたもので、萩の名工五島言平恒徳(?)と山中武裕利豊との共同制作による。この燈籠の龍の高彫は実に素晴らしい。
この燈籠のうしろに益田梅村徳業碑がある。永代家老益田家の分家で、国家老をつとめたこともある。詩及び書に秀で、廃藩後樽屋町の屋敷に私塾を開き多くの子弟に漢字を教えたので、明治三十一年、門下生たちがその遺徳を慕って菩提寺の境内に建立したものである。碑の篆額は萩出身の杉孫七郎、文は門人安藤紀一の撰並びに書である。
拝殿前に一対の萩藩鋳物師制作の銅製狛犬が置いてあったが、戦時中供出せられ、現在は昭和三十五年に造られたものが据えてある。その台石は高彫の見事なものであり、当時の萩の名工の造作である。

神馬(木馬)は高杉晋作が生まれる十九年前(一八二〇年)に寄進されたものである。 

掲示板を写しました。

行事

  • 節分星祭り
  • 鎮守金毘羅大権現春祭(4月10日)
  • 本尊供並びに平和観音法要(5月24日)
  • 鎮守夏祭(7月10日)
  • 鎮守秋祭(10月10日)

アクセス

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この記事を書いた人

引き算の美学を探究中
座右の銘は「吾唯知足」

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